「空想妄想の言葉で他人に良いイメージを植え付けるが、実際問題が起こった時に責任から逃げて押し付ける人」かどうか見極めるために大切なこと

普段は優しい言葉を投げかけてくれる人がいる。平和な世の中の平和な日常を過ごしている人にとっては、きっとその人は優しくて良い人に映るだろう。その人に好意を抱くに違いない。

しかし、何か問題が起こるとする。平和が乱れるとする。誰かが責任を追求されるとする。その時にその人はどう動くだろうか?遠回しに責任を回避しようとしていないだろうか?優しい言葉は健在だろうか?何か具体的な問題解決に向かって行動してくれるだろうか?そして何より責任を押し付けやすそうな人を責任を押し付けていたりはしないだろうか?

平和な世の中で人の価値の真贋を見極めるのは難しい。人は口だけならば何とでも言えるし、それだけで自分の印象が良くなるような行動は誰だって取りたいのである。ドラゴンを実際に体験したことのない人間は、ドラゴンを倒す想像を容易にできるし、ドラゴンを倒す快感に容易に浸れる。しかしながら、ドラゴンではなく、それが熊であり、実際に対峙して退治したことのある人の意見を聞くのであれば口から出る言葉はまるで異なるものになるだろう。

きっと、実際に熊を体験して上で、熊を倒すことについて啖呵を切れるような人がいるのだとしたら、それは相当な熟練度の手練である。天才の域であろう。そういう天才の言葉と、何も知らない何も体験したことがない妄想だけの人間の言葉は妙に重なる部分がある。だから、人は他者の大見得を切る様子を見て勘違いしてしまったりするのである。

まぁ、何か問題が起こればすぐに分かることではあるが。

ここから何かを考えて学びとするのならば、「他人の言葉は信用してはならない」ということだろう。何か能力を主張するのならば、実際にやらせてみてその真偽を確かめる必要があるし、何か人格の高尚さを主張するのならば実際に助けてもらってから信頼する必要があるである。つまり信用しても良いのは言葉ではなく、行動である。という簡単な話だ。

人は言葉によって多彩なイメージを描けるように進化してきたが、その進化を逆手に取って悪用する輩も存在する。ストーリーテラーは素晴らしい存在だが、現実においてはドラゴンを徒手空拳で打破できる人間はいない。だが、ストーリーテラーはそれを他者に信じさせてしまう。それを詐欺と言わずに何と言おうか。空想妄想の物語は決して、みだりに現実に侵入してはならないのである。

現実と空想妄想の区分ができて、その相互変換もしっかりできる、言行は一致させる。そういう人間こそを信用する対象として見なくてはならない。

信用するという行為は、見方によっては他者に甘えた行為だが、それでも甘えた考えて他者を信用すると、必ず痛い目に遭うのである。