「知能のハイスペックが生む退屈というリスク」を正当化という自己欺瞞で進化して行くのが人間だ。

自分が何かから逸れてしまった気分に襲われて、必死で何かの組織に属そうとする心境がある。別に組織が正しいと思って組織に入る訳ではない。だが、きっと組織に入り浸る間に、組織の正しさこそが自分の正しさになってしまう。直接的に組織から伝令されてなくても、そこは人間が持つ能力である、空気を読む、という行為で実現される。

人間が他の動物より劣っている点があるとするならば、人間は肉体的に強制されずとも奴隷になり得てしまう、ということなのだろう。言葉を理解できるが故に、抽象概念に操られてしまう。頭がよく働く、ということが逆に悪い結果を引き寄せてしまう事は往々にしてあるのだ。科学技術然り、戦争然り。

速く走れることができる生き物は、壁に衝突して受けるダメージのリスクも大きい。高度に知識を使いこなせる生き物は、生み出した技術に首を締められるリスクを負う。

「頭が良い」という言葉を安易に使うのは頭が良い行為ではないと私は考えるが、それでも自分の頭の良さによって、結果、自分や他者が酷く傷つく結果になるのであれば、それが頭の良い人間のやる事なのかと、私は頭を抱えてしまう。

とはいえ、無能さに甘んじていては、いずれ何かに淘汰されるし、どこにも進めないで、未来永劫何も変わらない退屈な世の中が待っている。どこかに向かって行くとか、進化していく、というのは何らかの犠牲を少なからず伴ってしまうのだろう。

犠牲なしには、進化できない。犠牲なしには、成長できない。犠牲がなければ退屈な世界だ。ここで犠牲を正当化してしまう輩も存在するようだが、それは間違っている。「望む事のために必要な物」に付随する欠点、というだけなのである。要は、ただのデメリット、短所だ。「背が高いと電車のドアに頭をぶつけて困る」という話を聞いた事があるが、それでも電車のドアに頭をぶつけることを正当化する理由もないし、正義だと考える人もいないだろう。

しかし何故だが、犠牲については正当化されるし、場合によっては正義とされる。不思議なものである、何故だろうか?

それはきっと、他人と対して「後ろめたい」からであろう。他人に被害が及ぶのは承知だが、それでも私はそれが欲しい。そうしないと私は満足できないし、私は永遠に未来永劫退屈である。それには耐えられない。

だから、進化成長に伴う「犠牲」という短所、デメリットを短絡的に正当化するしか人には術がないのである。そうしない人は、無能となり果て、とうの昔に淘汰された。

正当化や正義というのは自らが望む事柄の欠点を誤魔化すための自己欺瞞である。何にでも長所があり、その長所は必ず短所でもある。世間に対して自らが望む事柄を許容させるためには、必ず正当化という詐欺が必要なのである。

自分を騙して、他者を巻き込み他者を騙す。他者に対して、自分が望む長所を与えて、短所を押し付ける。勝手な行為でしかない。真面目に冷静に考えたら、他者の自由を考えるのならば、きっとそれはできない。

だから人は人を騙す。まず最初に自分を騙す。そのために正義や愛は不可欠であり。それらが争いや犠牲を生んで、そして成長させ進化させてきた。

頭の良い私が、頭が良いが故に自分自身を騙し通して、他者をもそれに巻き込む。何にも縛られないで生きていけるはずの私達が、毎日何かに縛られたように生きる理由はそれに由来する。我々は我々の頭の良さを使いこなせているのだろうか?最終的に我々は我々の頭の良さによって、より良い結果を手にすることができるのだろうか?