『仕事は人生の70%』人生における仕事の割合と赤点か否かを決める個々の価値観の問題について

仕事は人生の7分の5ではあるが

仕事は人生ではない、だが人生の大半を占めている。よって仕事を人生にする人は多い。それは正しいのだろうか?

人生の大半を占める仕事において、高い成果を挙げるということは、同時に人生においても高い成果を挙げたと思い込める可能性が高い。自分の人生の7分の5が100点満点ならば、人生全体でも70点ぐらいは確保したと考えやすいからである。少なくても赤点ではないし、平均点くらいはきっと獲得できているだろう。

その逆で、仕事においてまるで0点な人間にとっては、それ以外が完璧に充実したとしても、もう30点程度を彷徨うことになってしまう。赤点ギリギリである。

とはいえ、時間の量に対しての成果の大きさがそのまま人生の満足度に直結する、なんていう単純な理屈で人間は動く訳ではない。ふとした瞬間のほんの些細な出来事で人は心の底から満たされてしまう場合もあるし、どんなに成功街道を上り詰めても晩年は寂しく辛く人生を後悔して自死してしまう場合もあるのだから。終わり良ければ全て良し、という格言がある通りに中間地点で好成績を叩き出すだけでは人生を満足することはできないのだろう。

何が高得点で何が最高か?それは抽象的なものであるほどに答えが様々になる得るし、それは個々の人間によってまるで異なるものになり得るのだ。

だからワーカホリックは無職の自堕落さを侮蔑するし、無職はワーカホリックを社畜と罵るのである。侮辱だとか罵りなんてものは、元を辿れば自分の価値観に合致していない、というだけの話である。

そういう意味では自己嫌悪ってのは自分が正しいと思う価値観に、自分自身が合致できていない場合に発生する感情なのであろう。

人生の終わりの評価が全てなのではない

自己採点は厳しいけれど曖昧だ。何を大切にするかも自身で把握しきれていないままに走り続けて、最終的に自分が求めていたのかを終点で気づき過去の自分に審判を下す。別に終点に居る自分自身の価値観が絶対的に正しい訳でもないのだが、それでも終点で審判を下せる人物は終点に存在する自分自身でしかないので、平気で冷徹に過去の自分の価値観を否定し、自分の人生に赤点を付けてしまう事もある。

しかしながら、終点での採点結果が全てではないのだ、実際の所。それは終点に存在する自分から視点であるだけの話なのだ。それが全てではない。ただの視点の一つである。それは勘違いしてはいけない。

様々な人間に様々な価値観があるように、様々な時代の自分に様々な価値観があるだけの話である。今の私が価値があると思えば、それは価値なのである。それは揺らがない。わざわざ今の自分をロクに知らない未来の自分に判定を委ねる必要性もないだろう。