やりたいことより自己保身に走って休日までもが縛られている生きているような

最初はやりたくて始めたはずだ

気力体力が全く出ないケースってのは、まぁ多々ある。私の基礎体力が少ないせいもきっとあるのだろう、休日が訪れると体の力を急激に抜け落ちて、今まで思い描いていた「やりたいことリスト」にある膨大な文章群は、ただの鉛の足枷にしか見えなくなっている。ただただ、「休日にやらなければいけないリスト」にしか認識できなくなっている。

思えば何だって最初は自ら志望して開始した事柄なはずである。そらまぁ、金銭を稼ぐためという目的ありきなのは確かに間違いないのだが、それでもどうやって金銭を稼ぐのか?という手段までは、この国は国民に強制したりなんかしない。ただ、将来の不安の解消のために、近未来の強欲を満たすために、自らの身体を過酷な環境に送り込んでいるだけある。

人が理想とする生活を実現するコストは、現代の日本においては物凄く高い。35年間ものローン生活を送ることを誓い、休日も何かの文句や責務やサービスに追われて、競争と自助努力を重ねて誰かを蹴落として生活していく、という活動を通じてようやく手に入る理想だ。

日本が豊かな国なのかも疑わしくなってくるレベルである。というか、これこそが建前社会の象徴であり、上っ面な豊かさなのだろう。皆が皆、幸せな格好をするために地獄に身を投げているような社会なのかもしれない。

縛られるのは回避できないけれど

そういう風に私は社会を俯瞰して皮肉っているようだが、それでもきっと私もそのシステムに組み込まれている感がなくはない。休日にやりたいことリストなんてものを勝手に妄想して、いざ休日になるとそれが実行できずに自己嫌悪に陥る、はたまた実行できるが疲労感のみが残る。それもまた自分の理想像に対するコストの高さ故に発生する害悪なのだろう。これだけ発展した社会なのに、人は人が欲しいものを手に入れるためのコストが高すぎはしないだろうか?

皆と同じことを諦めたり、「どうしても欲しい訳じゃないけれど、何となく手に入れなければいけないように錯覚しているような物」を手に入れようとするのを諦めれば、もう少し私は気楽に生活を送ることができるのだろうか?それとも、それはそれで私には「社会が果たすべ義務」みたいなものを何一つ遂行できなかった喪失感が残るのだろうか?

分からない。分からないことだらけである、だからこそ人は皆「正しそうなもの」、皆が経験して素晴らしいと言っているものを信じて生きていき疲れて、「皆も同じだから」と自分を慰めて生きていくのだろう。

amazonのレビュー欄を熟読しないと商品を購入できないように、人はきっと自分の生き方も誰かのレビューが存在しないと決められないのだろう。確かに長い長い人生を何の頼りもなく決定するのには不安が残る。

一度しか存在しない貴重な人生という奴を誰もが失敗させたくないからこそ、大半の人々は無難に生きてしまうのだろう。

まぁ、それでも良いのか。「他人と違う人生を生きることが正しい」という理想に縛られて苦しく生きるのも、それはそれで馬鹿馬鹿しいものだろうから。

結局、何にも縛られないで生きるってのは、おおよそ不可能なのだろう。大切なのは自分が何に縛り付けられることを選ぶのか?ということだろう。制約は必ずしも自分を不幸にする訳ではないのだから。上手に使いこなせば、それは自分の軸になり信念になり得るのだから。