「漠然とした素晴らしい未来を獲得するという目的、使命」を少しでも貢献、達成したと思い込むのが目的であるから、人はもっともらしい目的を探す

目的がないのに手段ばかりを集めて生きてもつまらない。きっと多くの人が抱えている鬱々しい感情はそういう類が原因ではないだろうか?そういう「もっともらしい」目的の獲得こそが結婚と子育てなのではないだろうか?

よくよく考えれば、別に子供を産んで立派に育てた所で、未来永劫自分の子孫が繁栄し増殖し続ける訳ではあるまい。立派に子供を増やして、その孫の姿までをもしっかりと視認したとしても、さらにその子供の世代で途絶えてしまう可能性はまるで否めない。というか全然あり得るケースだろう。

私達が望むのは、子孫繁栄そのものではなく、子孫繁栄が続いていくのだろうという漠然とした未来である。もっと言うならば、その漠然とした素晴らしい未来を獲得するための目的の達成こそを求めているのである。だから、厳密に言えば結婚は必須ではないし、子育ても必須ではない。

だが、ノーベル賞も取れない、技術革新も起こせない、世界を動かす力もない我々は「漠然として素晴らしい未来」子々孫々に期待しようと画策する訳だ。子供に夢を託すなんて言い方だと綺麗に聞こえるかもしれないけれど、実際の所は子々孫々に素晴らしい未来の作成を丸投げしているだけである。まぁ、その子々孫々だって、そのまた子々孫々に丸投げしていくのだが。

しかしながら、その「素晴らしい未来の作成丸投げ」によって我々人類は、本当に少しずつ発展していっているし、人間という種を存続させていっている。

それはきっと曖昧で漠然としているから成功しているのだし、適当に自分勝手に丸投げしているから上手くいっているのだろう。そういう生き方によって、自分はちゃんと使命を果たした、自分には目的があった、と思って生きていけるのである。

そういうい意味では、我が子を塾や習い事に足繁く通わせて、ほぼ虐待みたいな生活を送らせるのも心情的に理解できないとは言わない。許せないことではあるが、それが人間の欲というものなのだろう。

要するに「自分には意味があったのだ」と思いたいのだ。子供が素晴らしい未来を巻き起こしてくれれば、もしくはそれを予感させてくれれば、自分には意味があったと思えるだろう。自分にはこの世界に生まれてきた意味があったのだと思うことが、思い込むことが、多くの人の目的なのだろう。

結婚と子育ては大変なものだと聞くが、それでもそんな大層な目的を達成したと思い込むための手段としては、比較的容易なのかもしれない。今から天才になって技術で世の中を変えるよりかは、もしくは今から大富豪になって世の中を変革させるよりかは、比較的容易だと判断するのだろう。

自分には生まれてきた意味があった。自分は使命を果たした。そう思って、思い込んで、勘違いして人は生きて死にたいのである。

そして、そのための目的は必ずしも結婚育児に留まる必要はない。別に手段でそれを実践することは可能だと言うことも付け加えておきたい。ただ結婚育児がメジャーな手法であるというだけである。