人は結論ありきで論理を組み立てる生き物である。

悪い所を見つける事が上手な人は不安になりやすい。実際の所は悪い所は良い所だと解釈する事も可能なのだが、結局は悪い所だと解釈してしまう能力そのものが不安を発生させるのである。

だから、不安になりやすいという特徴は一歩進化させる事に成功すれば、一転してポジティブ思考になることも可能だし、中庸な性格を獲得することも可能になる。そのためには、今自分が観察しているそれについて疑いの目を向けなければならない。

今自分が観察している悪い点が本当は悪い点ではないから、実際は不安を引き起こすものでもなんでもない、という結果を導き出すためには、今現在の自分の思考を疑う必要があるのだ。

ということは、不安神経症の人がポジティブ思考、もしくは中庸思考へと変化するためには、疑心という性質を帯びなくてはならない、ということになり。本当にそうなのか?と疑う心。一歩間違えば疑心暗鬼の不安神経症というあんまり褒められそうにない性格になってしまう可能性がある。

ならば、「疑心暗鬼の不安神経症の人間」か「ポジティブ思考もしくは中庸の心をもっている人間」かを分ける要素はどこにあるのだろうか?

ポジティブ思考だって、一見ネガティブに見える要素を疑って良い要素を見つけ出すことに成功した人間であるし、中庸な心を持つ人間は表面上綺麗に見える物でも不安を感じる能力を持つからこそ中庸足り得ているのである。

結局は、ポジティブな人間だって、中庸な人間だって、少なくても疑う心を持っているのだ。さらに中庸な人間は不安になる能力だって持っている。ならば、「疑心暗鬼の不安神経症の人間」とその人達は何が違うというのだろうか?

その辺については、最終的に「本人がそうであることを望む」かどうかが強く関係しているように思う。ネガティブによって苦しんでいる人でも、前向きな性格に生まれ変わりたいと言いつつも、なんだかんだ言ってネガティブな性格にしがみついて変わろうとしない人間は多々いる。要は口だけで最終的に性格を変えようと心から望んでいる訳でもないのである。

「人間は己が望み思い描くをイメージ」で無理矢理に現実を捻じ曲げて解釈しようとする。高度な技術も科学的な知識も、自分の都合の良い答えを導き出すための道具としてしか扱っていない人間はやはり文明の発達したこの世界でも存在するのだ。

自分の正しいと思う答えが科学的に証明されたと思いたいが故に人は科学的手法を利用しているに過ぎない。欲しいものは最初から決まっている、結論ありきで論を展開する。そういう人間は多い、というかほとんどがそうである。

故に何が何でもネガティブな人は最初からネガティブな結論ありきで思考行動しているのだ。どんな道具を与えても、どんな技術を教えても、どんな助けを捧げても、ネガティブを望む人間はそれらを巧みに料理して「ネガティブな結論」を導き出すだろう。食べたい料理が決まっているならば、材料はその料理を完成させるためだけに使用するだろう。馴染まなければ加工してその料理に馴染ませるだろうし、どうしてもその料理に合わない食材ならば捨てるだけの話だ。

そういう訳で、どんなに言葉を尽くしてもどうしようもない相手というのはいる。もしも、ネガティブな人間がいて口先だけは「変わりたい」と言っていても、一向に変わる素振りがないのであれば、その人もその類の人間である。

他人が望むことを変えるのは容易ではない。