思い出とアイデンティティが社会的成功を束縛するけれど、自己の総入れ替えを決意できてしまったら一体私は何者なのだろうか。

たくさんの思い出を抱えながら私達は歩いている。
道の途中で思い出に救われることもあれば、逆に思い出に縛られて余計に辛い思いをすることもある。
思い出は必ずしも私を幸福にするとは限らない。
しかしそれでも人は安易に思い出を捨てようとは思わないだろう。何故だろうか?

それは人間のアイデンティティや人生と言ったものが思い出によって構成されているからだろう。

どんなに自分の人生が幸福になるからと言っても、「自分自身が何であるかも全く分からなくなるというリスク」を天秤にかけるのならば、誰もそんな選択はしないだろう。誰だって幸福になりたいだろうが、それは自分ができる限り自分のままでありながら幸福になりたいと願うのだ。

マイナーチェンジとしての変化を努力によって実践しようとする輩は多いが、フルモデルチェンジを軽々しく行う輩は極々少数だ。

しかしながら、そういう意味で人生は残酷なもので、今現在の人生が上手く行っていない人が多少の変化を身に付けた所で劇的に人生が好転する訳がないのだ。もしも、何事においても最悪な人生を送っている人間がいるとするならば、何事においては逆転させた人格や能力を獲得しなければ最高な人生を送れる訳がない。

「ほんのちょっとの工夫で!、斬新な方法での効率化で!」なんていう甘言はこの世の溢れるけれど、実際問題、それで甘い汁を吸うのは、その情報を発信した者たちである。戯言を咀嚼せずに解釈せずに加工せずに飲み込む輩が成功者になる道理はない。

ほんのちょっとの努力では足りないのである。まるっきり自分自身を変化させないといけない。というか変化という言葉では足りない、総入れ替えと言った表現がきっと正しいのだろう。

つまりは完全なる自己否定であり、今のままの自分はこの世界において愛されないのだと理解することなのだろう。

言ってしまえば、それは結局、今現在の自分を否定して殺して異なる人格をインストールするという事に他ならないのだから、自分を殺す相手が世間から自分にシフトしただけの話なのかもしれない。

自己の人格は愛すべきもので絶対に手放せないものだろうか。しかしながら、その人格では世界は自分を愛してくれないだろうか。時代によって世界は愛する対象を変化させるが、そのスピードは基本的に極めて緩やかであり、人間一人に予測の付くものではない。ましてや自分の人格が世界に愛される時期を待てるほどに人間の身体の寿命は長くもない。

世界に愛されない人格を抱えて不幸に生きるか、世界に愛される人格に入れ替えて幸福に生きるか。
どちらが幸福がどうか決めるのは、自分の心だ。