「変えるべきもの」と「変えてはいけないもの」の違いについて

変えるべきものがある。そんなに恩恵を受けている訳でもないのに、周囲との同調がきっかけで開始した習慣を惰性で継続してしまっているようなケースだ。悪影響があると明確に分かっているし、自分自身も強く望んでいる訳でもないのに、辞めるきっかけを見つけられずにズルズルと続けてしまっている習慣は変えなければいけないだろう。

変えてはいけないものがある。確実に効果があって将来のためになる訓練法なんかがそうだろう。退屈過ぎて飽々してしまっていても、それが重要なもので自分欲しいものを将来与えてくれるのならば、その習慣は変えてはいけないだろう。

世の中には「変えるべきもの」と「変えてはいけないもの」があるのだ。人は飽きと退屈によって「変えてはいけないもの」を変えるという失敗を犯してしまうことがあるし、勢いと惰性で「変えるべきもの」を変えないという損失を被ってしまうことがある。

客観的に冷静に観察すれば、その二つの分別は容易なのかもしれないが、「客観的に冷静に観察する」という行為はたった一人の個人には実は非常に難しいのだ。仮に良き友人があなたにいたとしても、良き友人はあなたを四六時中観察している訳ではない。プライベートが皆無な人間は少なく、プライベートにはその人の根幹を形作る要素がふんだんに盛り込まれている。

だから人は必ずしも良い方向に変わり続けることができる訳ではないのだ。良い習慣を継続して、悪い習慣を断ち切る。そこを上手にやるためには忍耐と自制心という才能が必要なのだ。

長く続けることが必ずしも正しいとは限られない。何故なら自分が何の才能を持っているのかを発掘できる機会が減るからだ。自分の才能を知らない間はできる限りたくさんのジャンルに挑戦してみるのが良い。だから三日坊主は必ずしも悪い事ではない。

良い習慣を長く続ける事が大事なのであり、良い習慣を増やし続けることが大事なのである。

さて、そのためには忍耐と自制心、そして冷静な観察力が大切だと言った。

そんな要素を有する人間がどれだけいるのだろうか?私は知らない。

好きなことだけしかやりたくない人や、周囲が褒めることだけしかやらない人ならば私は知っている。好きなことが良い習慣だとは限らないし、周囲が褒める行動は周囲にとって都合が良いだけの行動なのかもしれない。どちらも自分を豊かにする保証はないのである。無論、偶然それに合致するケースはあるが、それで勘違いをしてはいけない。

結局の所、冷静な観察力による定期的なメンテナンスと、正しい方向に修正し続ける忍耐と自制心が必要なのだが、それはあまりにも天才的な要素なので、好きな事や周囲からの承認という短期的な喜びに食いついて皆生きるのである。

その辺、なんとかならないだろうか?良き同居人でも見つけるのが良いのだろうか?どうなんだろうか?