どうでもいいことに神経質に真剣になり、考えなければいけないことを適当に放置してしまう人生もまた自由なのだろう

自分探しをする人は馬鹿なのか?

自分探しの旅を馬鹿にする人は多いけれど、それと同じくらい自分の人生の目的を持っていない人は多い。
不器用ながらに人生の送り方を模索する人を馬鹿にしておきながら、人生をどう送りたいかも考えずに惰性で面白さの欠片もなく生きている人は多い。

真剣であろうとすると、周囲から侮辱されるケースはそこそこあるのである。「なに、マジになっちゃってんだよwwおまえwww」みたいな奴である。真面目に何かを達成しようとする人が恥ずかしいと指を刺される文化は何故か存在する。

まぁ、とは言え「意識高い系」や「自分探しの旅」の人々を擁護して応援しようって訳ではない。自分を探すのも意識を高めるのもその人の勝手なのだから、こちらに一々ウザったく干渉して来ないで欲しいとは思う。ただ私は互いの領分を互いに守って、できる限り皆が皆の生きたいように生きられればいいなぁ、と思うだけである。


何にも束縛されずに自分を考える

そんなこんなを考えていると、人生にはある程度の空白期間って奴があってもいいんじゃないだろうか?と思う。本当に何もない期間。家族や恋人や友達なんかに生活の口出しをされず共有もせず。仕事もせずに金銭のについて頭を回らせる必要もなく生きる期間。

本当に他人に干渉されず、本当に自由な期間。そんな空白期間があれば、もう少し自分を内省できるようになるし、俯瞰できるようになると思うのだ。自分をマクロな視点で見つめるのは難しい。自分を世間に左右させるに動かすのは難しい。だから人は怠惰な毎日にも妥協してしまうし、周囲の願望を己の願望だと錯覚してしまったりしまうのだろう。

確かに、私とは何か?を定義するに当たって、周囲の人間関係や自分の職業を引き合いに出さずに説明するのは困難かもしれない。自分がどんな性格をしているかは周囲の人間に対しての振る舞いで分析されるし、自分がどんな仕事に就いているのかも自分の好きな行動によって説明されなくもないからだ。

ただ、そういう周囲との関係性って奴を全部取っ払った時に自分に何が残るのか、何が見えるのか?ってことは一度実験してみたら面白いだろうし、実験するだけの価値はあると思う。実際に行動に移すリスクは人によっては高いだろうが。

考えるべきを考えたい

人生は短い。だからそんなことをしている暇はない。と仰る輩もいるだろうが、短い人生どう生きるかも曖昧な状態ではそれこそ面白くないし勿体無いではないか。「なんか違う」「しっくりこない」「これでいいのだろうか?」なんて感情を心にモヤモヤと残したままで日々を生きるのは辛いだろう。辛いだろうから、そしてそんな辛い日々から脱却する術をよく知らないから、自分探しの旅をする人間達を自ら率先して探して、しなくても良い批判をするのだろう。

どうでもいい事柄ならば、放っておけばいいのである。

考えなければいけないことは、きっと他にたくさんある。

ただ、真剣に考えなければいけないことは、考えるのが怖いし答えが見つからなければ怖いので、どうでもいいことで気を紛らわすのである。

まぁ、それも含めて良くも悪くも人生は自由である。