毎日継続して同じ行為を繰り返した所で、いつも同じ脳の部位が活性化させるとは限らないのではないか?

脳は気まぐれ

「やり続けると脳の対応する部位が活性化して成長する。だからトレーニングの類は継続して行うことが大切なのである。」という主張は、まぁ確かにその通りだろうと思う。

しかしながら、私が本日行った行動とまるで同様の行動を取ったとしても、それは同一の脳の部位を活性化させるのだろうか?

いやいや、最初の論説に同意しておきながら、その直後に真っ向から斬りつけるような意見を振り回すのもは宜しくないとは思うが聞いて欲しい。

筋肉トレーニングの類であれば、きっと同じ練習をすれば同じ部位が鍛えられて継続することにより、それはさらに強化されることだろう。

しかしながら脳みそについての話は私は違うのではないかと思う。だって、初めての行為で使う部位と慣れきった行為で使う部位はまるで別の場所だとしても不自然はないのだから。

初めての行為には色々と危険が伴う。何故なら、「何をどうすればどうなる」という原因と結果のパターンを何一つ知り得ていないのだから。予測できない結果に柔軟に対応するのは困難であり、対応に苦慮することは則ち危険に繋がる。だから初めての行為は危険なのだ。

となれば、人体において生命維持の観点からどうしたって避けたいと欲求する危険を回避するために、脳みそをフル回転させることになる。つまりは観察と分析と慎重という脳みその部位がフルフルに活動すること請け合いである。そんな部位が強化されることだろう。

しかしながら、そんな初めての行為も二回目以降は初めてではないのである。新鮮な体験は無情にも退屈な機械動作と成り果ててしまう。そうなってしまえば、人は「初めてだった行為」にそこまで夢中になることはないし、危険回避に躍起になることもない。つまりは観察も分析も慎重も行われないし、それに対応する部位も活性化されない。

その代わり、退屈を打破するために何か工夫を行う脳の部位が活性化されるかもしれないし、その退屈な行為を早く終わらせるための効率化を行うための脳の部位が活性化されるかもしれない。


変わり続ける世界の中で

要は、同じ行為であっても、強化される部位はその時とその人の状態によって大きく異なるということが私は言いたい。

だから、やり続けることが脳のどっかしらを強化するという論には大いに同意するけれども、継続されるトレーニングが常に同じ脳の部位を活性化させるとは限らないのでは?と思う次第である。

誰かさんの危機管理能力を鍛え上げたいと思うのならば、お決まりのお馴染みの退屈な避難訓練を定期的に実施した所でたかが知れているのである。そんな効果は最初の最初だけである。

危機管理能力を発達させたいのならば、毎回手を変え品を変え、その誰かさんの生命維持本能を刺激してやるようなイベントを用意してあげることが肝要であろう。

効率化の能力を発達させたいのならば、退屈な課題を与え、早くクリアした者から帰って良いことにすればよいだろう。

脳は筋肉とは違い、同じ行為によって、常に同じ反応が得られる訳ではないと私は主張したい。その辺を分かって生活しないと意味のない根性論に突っ走ってしまい、誰にも理解されず、自分にも成果のない事態に遭遇してしまうだろう。それだけは誰だって避けたいはずである。

継続は確かに力ではあるが、技術と理論と方法論も重要な力だ。

継続はいつも同じベクトルに同じ力を与えるけれど、人と成果は気まぐれに自らの立ち位置を変化させる。

人と成果の気まぐれに真摯に向き合い、その都度その都度で力加減も力を与える方向も柔軟に変化させないとより良い成果は得られないんじゃないだろうか?

動かない的が永遠に動かないような簡単にミッションに我々は挑んでいる訳ではないはずだ。的は動くし、そして自分自身も動く。そういう世界で私達は生きているはずだ。