案外、依存そのものが悪いんじゃなくって、依存する対象を間違うのが悪いんじゃないかって思った。

依存に対する嫌悪感

依存は癖になりやすい。それも自覚症状が薄い傾向にある。何故ならば、依存は楽だし気持ちが良いし、依存の理由付けも割と簡単だからだ。
仕事で言うならば、「意識合わせのため、念の為、コミュニケーションの一貫として、聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥」なんていう言い訳で簡単に他者に依存できてしまう。無論そのような言葉が正しい意味を持つ場合は多々あるが、それでもそれが言い訳になりやすいことも確かだ。

依存は他者に負荷を与え、自己を衰弱させる。適度な相互依存は群衆動物の生きる知恵であるが、過度に行ってしまえば寄生行為となる。まぁそれはそれで生きていくための知恵なのかもしれないが、あまり格好良いものではないだろう。それに、寄生を極めるというのは実の所、自立した精神がないと実現し得ない高等な技術だったりすると思う。他者コントロールを極めた所にあると思うのだから、きっとそうだろう。

ずっと誰かに寄生していくというのは、簡単ではないし、自尊心が育たないし、自己のステータスアップにもならないことは確かだ。不可能ではないけれど、そんなにお得な行為ではないんじゃないか、と私は思う。

だから依存ってのは、気づくことができたのならば、さっさと縁を切るのが正しいのではないだろうか。依存は気持ちいいけれど、依存しなければ生きていけない自分自身には嫌悪が募っていくのである。

でも、そんな依存する自己を嫌悪できるだけ、それなりに自立に向かっている状態なのかもしれないとも思う。赤ちゃんが依存することに不快感を覚えたりはしないからな。

そんな不愉快な自己嫌悪を毎日コツコツと蓄積していくことができれば、きっといつの日が依存関係を断ち切れる日が来るのではないだろうか?って考えていくと、自分を変える秘訣は自己を嫌悪することなのかもしれないな。

というか、嫌いな自己が存在することでしか、自分は変わることができないんじゃないだろうか。今の自分に十分に満足していたら、わざわざ自分を変えようとは思わないからな。もっと高みを目指したいという高尚な願いの中にも、「今の自分は気に食わない」というドロドロしたくらい感情を否定できないと思う。

俗に悪感情と言われるものも、たまには役に立つこともあるのだ。きっと。


悪感情も意に反して役に立つのかも

と考えを進めるならば、「依存」という精神状態にも意外に役立つ点があったりするんじゃないか?

依存したいと望む心ってのは、他人と繋がっていたいとか、他人から多くの利益を享受したいという気持ちの現れだろう。

それって、社会生活の中で多くの金銭という利益を手に入れるために必要な要素ではないだろうか?まぁ、そういう時にその人が依存しているのは人ではなく「金と権力」という奴になるのだろうが。

「金と権力」に依存するってのは、あんまり褒められた事ではないかもしれないが、それでも極々一般的なものであろう。そう考えると依存が悪いんじゃなくって、依存する対象を見誤っていることが悪かったりするのだろうか?

もうよく分からなくなってきたけど、悪いと思っていたものが純粋に悪いって訳じゃなくて、使い道が間違っているだけってケースもあるのだろう。