職場で「結婚報告をアピールする同僚」をウザいとか不愉快に感じてしまう私は病んでいるのだろうか

職場で「結婚したよアピールをする同僚」をウザいとか不愉快に感じてしまう私は病んでいるのだろうか

まぁ、病んでいるのだろうな、と思う。
他人の幸せを素直を喜べない状態ってのは、童話やお伽噺の世界では不道徳で精神状態をおかしくしている状態であろう。

確かに、社会に対して大きな声でその感情を発露するのは幾分かの覚悟がいる。結婚アピールをした人が嫌われている職場か、結婚アピールをした人以外の大方の人達が、精神を病ませているのならば、そこまで否定されはしないだろうが、その場合、否定されないことはイコール健全ではないだろう。

誰かの幸せを喜ぶってのは難しいものだ。どうにも自分の幸せを奪い取られたような気持ちになってしまう。

それと似たような心情として、誰かが私の近くで褒められている光景を見ると、私自身を否定されているような気持ちになってしまう。

ライバル意識なんて綺麗で健全なものではなく、嫉妬と傲慢により構成される汚い感情なのだろう。

これは自然な感情なのだろうか?まぁ、何も力を加えていない心が吐き出す言葉なのだから、それは自然なのだろう。逆に、今の私が「誰かの幸せを喜ぶように矯正する」ってこと事態が不自然であろう。

とはいえ、不自然が悪い訳ではない。という現代は不自然だらけだ。人間の都合の良いように様々な物事を矯正して作り変えている。それは人工的と呼ばれ、自然の対極にある訳だ。だが私達はその恩恵に預かって、今日も昔よりは快適に生きられているはずだ。

結局、誰かを妬ましいと思う気持ちが自然だとしても、結果として私を苦しめるのであれば矯正した方が良いよねっていう単純な結論である。人間は欲望のままに好き勝手に振る舞うと痛い目に遭うのである。

だがしかし、人間ってのはそんな高機能でお利口に「悪いことだから辞める」なんて言って自分を変えることができない生き物である。出るものは出るのだ。息を吸えば吐かずにはいられない。聞いたことは話したくなるし、思ったことは口に出したくなる。

綺麗な物を取り入れたって汚い物を吐き出す生き物なのだ、我々は。それは直接的に表現しなくても思い当たる節が誰にだってあるはずだ。

誰だって汚い感情が生まれないとは思えない。それ自体を否定するのはあまりにも寓話的であり非現実的だ。

だから我々は制御する。出すべきではない場所では制御して堪える。そして出しても許される場所で出す。それが達成できる人間は少なくとも赤ん坊だと呼称されることはない、少なくとも社会的な生物に近づくのである。

そう思うと少し安心である。私はまるっきり病んでいる訳でもないし、ちゃんと制御することもできているし、出しても許される場所で出せているのだ。最高ではなくても許容される存在ではあるんじゃないだろうか。

まぁ、他の人間共の心の中がどういう動きをしているのかを如実に知るのはきっと難しい話だろうから、最終的に私は普通、正常の枠組みに収まっているかの知る由もないのだが、最終的に私を評価するのは私しかいないのだから、今日はこれで満足である。