短期的には真面目であるべきだが、超長期的な目線で物事を考える場合は多少アホであるべき

無目的な努力は苦痛

目的のない勉強なんて、海辺で石を積み上げるようなものだ。

勉強に嫌気が差す時というのは、「こんなもの何の役に立つんだよ!」と思ったりするものだ。
それはストレスによる心の咆哮かもしれないけれども、確かに意見としては正しいと思う。

役に立たない努力をしても役に立たないし、意味のない努力をしても意味はない。当然だ。

きっと何かの役には立つのだろうが、そんな微かな可能性を追い求めていられるほど人生は長くはないし、無価値でもない。苦痛を伴うのならば、将来に幸福をもたらす物でなければいけない。

「皆がやっているから」とか「上の人に命令されているから」みたいな希薄な動機ではやる気も出なければ成果も出ないし意味もない。だが、「ただ何となく、そうしなければいけないような気がする」というだけの理由で人は漫然と努力をし、薄弱な成果を獲得して生きている。無駄である。


ときめき不足

じゃあ、どうしてそういった思考ルーチンに陥ってしまうか?というと、結局の所、夢も希望も目標も所有していないからである。自己をときめかせる物がなく、ただ漠然とより良く生きたい、楽になりたいと考えるから目先の物しか見えなくなる。

「遥か遠くに燦然と輝く憧れ」ってヤツがないのである。それが問題である。

まぁ時として夢が人を搾取して殺す場合もあるけれど、夢も希望もなければ生きる価値はないのだろう。夢には自分を潰すものではなく、自己を牽引してもらった方が使い勝手が良い。

夢や希望ということについて、大人になってみて理解してしまう事がある。実際に叶えてみると、そこまで素晴らしい物ではないということだ。確かに叶った瞬間は素晴らしい気分で満ち溢れるだろうが、その気持ちは長時間持続されない。夢は見るものであり、覚めるものだ。

だが、「どうせ夢は覚めるもの」と失望して生きていくのは、あんまり面白くもない。退屈な世界を生きていたい訳ではないのだ。

だから、近くの現実ははっきりと見据えるべきだが、遠く向こうの景色はぼんやりと見えた方が美しいのである。

純粋無垢な自分

短期的には真面目であるべきだが、超長期的な目線で物事を考える場合は多少アホであるべきなのだ。愚直に夢や希望を信じる自分を生かしておかなければいけない。

だって、超長期的な物事まで超現実的に思考してしまったら、人間ひとりの生命に大した価値はないし、死ねば何もかも終わりなのである。後には何も残らない。そんな現実があるからこそ、そんな現実を無視しなければ人生は面白くならない。そういう何かを面白くするために思考と解釈を書き換える能力は、きっと人間だけのものだ。

社会に迷惑を掛ける情報改ざんは悪いかもしれないが、自分を面白くする情報改ざんは歓迎である。

夢を作ろう、希望を持とう、自分の命を誤魔化そう。