「今現在が幸せなら良い」と考える人は「短時間で自己の思考回路が真逆に変化する」と感じる機会が多い説

短時間で変わる心について

人生を無駄にしたと感じる瞬間がある。一日の終わりを後悔して、今日の行いを悔やんで、取り返しのつかない時間を憂う。それが無駄な時間を過ごした証拠であると感じる。

しかしながら、それが一体全体、何故無駄なのかを私はよく知らない。だって、過ぎ去る前の過去の私は、自らの意思でそれを行うことを決定したのだから。その時点では無駄だとは判断していなかったのだから。

今現在の私が思う無駄は、過去の私にとっては無駄ではない。だからこのような後悔の感情が発生しているのである。

これはおかしい。全くもっておかしい。私の価値基準という物がここ数時間の時の流れによって、逆転しているからである。

そんなに短時間で人は変わらない。人生に劇的な変換は訪れない。だから毎日の努力を積み重ねていこうではないか。という考えが一般社会全体に通じているような気がする王道的成功論のはずだ。私はそれを信じているのだ。

しかしながら、私の思考回路はこの短時間によって変化した。だからこその後悔だ。これによって分かったことは、肉体や能力は短時間で変化しないけれど、精神状態は短時間でも容易に変化し得るということだ。


過去の私と未来の私は別人格

私の精神に起きたことを具体的に述べるならば、「腹が減ったから好きな物を好き放題食べたら、数時間後には過食による肥満を後悔していた」ということである。この不思議は「食べる前は好き放題食べよう」と考えていたのが、「食べた後は食事制限をすれば良かった」と思う点にある。この精神の変化は劇的である。

実行前と実行後の差異を比較すると私の思考は真逆なのだ。これを劇的と言わずに何と言おうか。

実行前はその行為を肯定していて、実行後はその行為を無駄だと思う。まるで2つの人格が一つの肉体に内在しているかのようだ。これもまた、人体の神秘なのだろう。

この原因を分析してみることは、きっと人類の叡智に繋がり、神秘の解明にもなるんじゃないだろうか。

そんな壮大な事はまるで考えもしないけれども、これは素朴な疑問でもある。右手で氷を掴みながら、左手でホッカイロを掴むと、「冷たいと感じる私と温かいと感じる私が存在する」みたいな、まるで私の人格が分離してしまったかのように感じてしまう、なんか不思議な話だ。(よくよく考えれば、右手の冷たさと、左手の温かさを同時に感じることができる一つの人格がそこにあるだけなのだが。)

ともあれ、短時間に真逆の思考を持っているという不思議な現象について思考を巡らせてみるのも悪くないかもしれない。

食い過ぎは、過去の自分の身勝手だ

巡らせてみた結果。

私は都合の悪い部分だけをカットして思考していることが判明した。

つまりは、食べる前は食の快楽だけが見え、肥満という不快を無視していた。そして、食べた後は肥満という不快だけが見え、食の快楽を無視していた。

だから、無駄なんかではないのである。だって、食の快楽というメリットは享受していたのだから。でも、食後にはそんな快楽をすっかり忘れていて、肥満という嫌悪感のみが残存するから、無駄だったと感じる訳だ。

無駄だった、というのは正確ではなかったのだ。今現在の私には不快な部分しか残っていない、というのが正確だ。それについての感想が無駄、という訳だ。

言ってしまえば、過去の私は未来の私に不快感を丸投げしたのである。だからこれは無駄ではなく不快であり、自分の行いへの後悔ではなく、過去の私の人格への嫌悪である。

純粋に私は私の身勝手により今の私を苦しめたのである。それだけである。「現在の自分が幸せならそれでいい」という私の悪しき人格が未来の私に苦痛のボールをパスしただけである。

それを無駄だとか後悔だとか、そんな曖昧で被害者めいた言葉で誤魔化すのはよろしくない。ただ私は食の快楽に勝てなかっただけなのである。

食い過ぎたら運動しよう。それが未来の私への優しさである。